善意のすれ違いシリーズ①|張り切り始めた夜の気配
その夜、
まことはスマホを持ったまま、いつもより長くソファに座っていました。
テレビはついているけれど、
画面を見ている様子はなくて、
指だけが忙しそうに、上下に動いています。
スクロール。
またスクロール。
まりは、その様子を横目で見ながら、
あえて声はかけませんでした。
「何かを調べているんだな」
それだけは、空気で伝わってきます。

たぶん、
私の骨折のこと。
たぶん、
“骨にいいこと”。
でもこの時は、
まだ具体的な言葉にはなっていませんでした。ただ、
何かが始まりそうな夜の気配だけが、
部屋に静かに置かれていました。
朝、張り切りすぎた朝食と、まりの苦笑い
次の日の朝。
仕事前のまことが、
珍しくキッチンに立っていました。
いつもなら、
トーストを焼いて、
コーヒーを入れて、
「行ってきます」で終わる時間帯です。
それなのに、この日は違いました。
テーブルに並んだ朝食は、
いつもより明らかに「しっかり」しています。
・骨にいいらしい食材
・たんぱく質を意識したメニュー
・彩りも栄養も、きちんと考えられている感じ
「調べたんだな」というのが、
ひと目でわかる内容でした。

一見すると、とてもありがたい朝ごはん。
誰が見ても、ちゃんとしていて、
“正解っぽい”朝食です。
でも。
量が、少し多い。
器が、少し深い。
朝の体には、少し重たい。
まだ体が完全に起ききっていない時間。
片手で食べることにも、
少し気を使わなければいけない今の状態。
まりは、
一瞬だけその朝食を見てから、
まことの顔を見ました。
そして、
「ありがとう」と言いながら、
ほんの一瞬だけ、苦笑いをしました。
それは、
困った顔でもなく、
呆れた顔でもなく、
責めるようなものでもありません。
どちらかというと、
「うん、がんばったね」
と、
「でもちょっと違うかも」
が、同時に浮かんだような表情でした。
理由は、説明しません。
否定もしないし、
文句も言わない。
朝から、
正解・不正解の話をしたいわけでもないし、
せっかく用意してくれた気持ちを、
そのまま受け取りたい気持ちもありました。
ただ、
「ちょっとズレてるかも」
という感覚だけが、
まりの中に、静かに残っていました。
骨にいいこと。
ちゃんとしたこと。
それと、
「今の私が、朝に食べられるかどうか」は、
必ずしも同じじゃない。
そのことを、
言葉にするほどではないけれど、
体の感覚として、
まりはもう気づいていたのかもしれません。
昼、作りすぎた朝食を食べながら思ったこと
お昼。
朝に食べきれなかった分を、
まりは一人で、ゆっくり食べていました。
朝ほど体はこわばっていなくて、
時間にも、少し余裕があります。
「今なら、食べられるかも」
そんな感覚で、
お皿をテーブルに置きました。
ありがたい。
本当に、ありがたい。
ちゃんと考えてくれて、
時間を使って、
調べて、用意してくれた朝食。
それを、
こうして昼に回せていること自体、
悪い話ではありません。

でも。
一口、二口と食べ進めるうちに、
まりの中で、
別の気持ちが顔を出します。
この量を、
朝から毎日食べるのは、
やっぱり違うかもしれない。
おいしい。
ちゃんとしている。
栄養的にも、たぶん正解。
それでも、
「続ける前提」で考えると、
少ししんどい。
朝は、
体を起こすだけで精一杯の日もある。
片手で食べるだけで、
思った以上に気力を使う日もある。
そんな今の自分にとって、
この朝食は、
少しだけ背伸びだったのかもしれません。
骨にいいこと。
正しいこと。
その言葉自体は、
間違っていない。
でも、
それがそのまま
「今の体に合うこと」になるとは限らない。
昼に食べてみて、
はじめて、
その違いがはっきりしました。
朝に見たときは、
ありがたさの方が先に立っていたけれど。
時間がたって、
体が少し落ち着いた今だからこそ、
「これは毎朝じゃなくていいな」
と、素直に思えたのです。
この気づきは、
誰かを否定するものでも、
朝のがんばりを無駄にするものでもありません。
ただ、
今日の自分に合うペースを知った
それだけのこと。
昼の静かな時間は、
そんな整理をするには、
ちょうどよかったのかもしれません。
夕方、まりが動こうとした瞬間
夕方。
「少しなら、何か作れるかも」
まりは、
そんな気持ちでキッチンに立ちました。
完璧じゃなくていい。
ちゃんとした料理じゃなくていい。
できるところまで。
できる分だけ。
片手で、
できるところまでやってみます。
野菜を出す。
洗う。
向きを考える。
ひとつ動くたびに、
「あ、ここが不便なんだ」
というポイントが、次々に出てきます。
切るのも、
洗うのも、
思考より先に、体が疲れてしまう。
頭の中では、
もう少しできそうな気がしているのに、
手と体が、先に「今日はここまで」と言ってきます。
それでも、
まりは少しだけ続けました。
「できない」じゃなくて、
「やってみたかった」から。

そこへ、
仕事から帰ってきたまこと。
玄関の音がして、
「ただいま」の声がして。
キッチンに立つまりを見て、
一瞬、まことは足を止めます。
驚いたような、
でも、止めたいわけじゃないような、
少しだけ迷う顔。
まりは、
「ちょっとだけね」と言う代わりに、
そのまま作業を続けました。
守られるだけの人になりたいわけじゃない。
でも、
無理をしたいわけでもない。
その間に立つ、
ほんの数分の時間でした。
やろうとしたこと。
やってみたこと。
それ自体が、
ちゃんとあった一日。
そして、
それを見ていた人が、
ちゃんとそばにいた、夕方でした。
もう一度チャレンジした、骨にいい夕食
「昨日、調べた中でね」
まことは、
少しだけ誇らしそうにそう言って、
夕食を出しました。

朝より、シンプル。
でも、まだ「骨にいい」をしっかり意識しています。
お皿の数は減っているけれど、
「これは外してないはず」という自信は、
どこかに残っている感じ。
食べられる。
ちゃんと、おいしい。
これは、
間違いなく朝より現実的です。
でも。
「これで完璧!」
というほどではない。
量も、
タイミングも、
やっぱり少しだけ、惜しい。
まりは、
ひと口食べて、
心の中でそっと思いました。
(うん、進歩はしてる)
朝より軽い。
昼よりも無理がない。
でも、
「骨にいい」が、
まだ前に出てきている。
張り切りの第二波。
朝ほど全力ではないけれど、
まだブレーキは踏みきれていない感じ。
悪くない。
むしろ、ちゃんと良くなっている。
それでも、
「今の私にちょうどいい」
までは、
もう一歩。
そんな空気が、
言葉にしなくても伝わる形で、
食卓にありました。
お互い、
間違っているわけじゃない。
ただ、
少しだけ“正解の位置”が、
まだずれている。
でもそれも、
今日という一日の流れの中では、
ちゃんと前に進んでいる証拠でした。
夜の反省会。正しかったことと、違ったこと
夜。
食器を片づけて、
一息ついたあと。
二人で、
ソファに並んで座りました。
「……どうだった?」
まことが、
少し間を置いて聞きます。
まりは、
すぐには答えず、
少し考えてから言いました。
「うん。悪くはなかったよ」
それは、
気を使った言い方ではなくて、
本音に近い声でした。
栄養的には、
たぶん悪くなかった。
ちゃんとしていたし、
調べた形跡も、
しっかりあった。
でも。
「量がね、ちょっと多かったかな」
「……朝は、特に?」
「うん。朝は特に」
まりがそう言うと、
まことは小さく笑って、
頭をかきました。

「そっか。
なんかさ、
“骨にいい”って書いてあると、
全部盛りたくなるんだよね」
「それ、わかる」
「情報、集めすぎたかも」
「うん。集めすぎてた」
二人で、
同じところで笑います。
それから、
まりが続けました。
「体にいいのと、
食べやすいのって、
別なんだなって思った」
「……あー、それだ」
まことは、
何か腑に落ちたような顔をしました。
「正しいこと、
やろうとしすぎてたかも」
責める声ではありません。
反省というより、
整理に近いトーンでした。
落ち込むでもなく、
反省文を書くでもなく。
「じゃあ、次はどうする?」
まことがそう言うと、
まりは少し考えてから、答えます。
「朝は、
もっと軽くていいかも」
「昼か夜に、
“骨にいい”を回すとか?」
「それ、ちょうどいいかも」
完璧な結論ではないけれど、
二人とも、
少し楽になった顔をしていました。
こうして話せたこと。
笑いながら、
「違ったね」と言えたこと。
それ自体が、
その日の一番の“骨にいいこと”
だったのかもしれません。
こうして振り返ってみると、
骨折中の食事って、
「何を食べるか」以上に、
「どう一緒に考えるか」が大事だったなと思います。
同じように、
夫婦で試行錯誤した日のことを、
別の記事でも書いています。
👉 利き手の右手を骨折したら“食べる”がつらい…|片手生活を支える献立・器・姿勢の工夫と夫婦の優しい乗り切り方
外に出てみる。食事以外の“骨の話”
食事の話から、
少しだけ離れて。
「ちょっと、外出てみる?」
どちらからともなく、
そんな声が出ました。
二人で上着を着て、
家の外に出ます。
夜の空気は、
昼間より少し冷たくて、
でも、頭がすっとする感じがしました。
公園まで、
ゆっくり歩く。
歩幅は揃えなくていい。
会話も、無理に続けなくていい。
まりは、
大きく息を吸って、
ゆっくり吐きました。
それだけで、
胸のあたりが、
少し軽くなった気がします。
「なんかさ」
まことが、
歩きながら言いました。
「食事の話ばっかりしてたね、今日」
「うん。
骨のこと、
ずっと考えてた気がする」

公園に着いて、
ベンチのそばで立ち止まります。
かかとを、
トン、トンと落とす。
骨にいいらしい運動。
正直、
効いているかは、よくわかりません。
「効いてる?」
「……どうだろう」
二人で、
同時に笑いました。
でも、
その動きよりも、
その場所に来たことのほうが、
きっと大きかった。
外の空気を吸って、
体を動かして、
家の中とは違う音を聞く。
それだけで、
気持ちは少し上向きました。
骨の話と、
気分転換。
どちらも、
今の二人には、
ちょうどよかったみたいです。
家に戻る頃には、
「今日、悪くなかったね」
そんな空気が、
自然に流れていました。
まとめ|正解より「続けられる」を選ぶ
骨にいいことは、
たくさんあります。
食事も、
運動も、
生活習慣も。
調べれば調べるほど、
「これもやったほうがいい」
「あれも足りないかも」
そんな情報が、次々に出てきます。
でも。
全部やらなくていい。
むしろ、
全部やろうとしなくていい。
今の体に合うこと。
今の生活で、無理なく続けられること。
それを、
夫婦で話しながら、
少しずつ調整していく。

今日みたいに、
「やりすぎたね」
「ちょっと違ったね」
と笑いながら言えるなら、
それで十分です。
正解を一気に見つけなくてもいい。
回復は、
一発で決まるものじゃないから。
正解探しに疲れたら、
少し立ち止まっていい。
「今日はここまででいい」
そう言える夜があることも、
ちゃんと回復の一部。
がんばりすぎた一日も、
話して、笑って、外の空気を吸えたなら、
悪い日じゃなかった。
そんなふうに思える時間が、
これからを支えてくれる気がします。
※状況が違う方へ
骨折中の暮らしは、
家族構成や生活スタイルによって、
しんどさの形も変わります。
・片手での家事が一番つらかった日のこと
・一人暮らしで「作らない前提」を選んだ日のこと
それぞれ、別の記事にまとめています。
✔ 家事の記事
✔ 一人暮らしの記事
骨折や運動器の健康については、
公的機関の情報も参考になります。・厚生労働省|骨折・運動器の健康について (出典:厚生労働省)


