訪問看護シリーズ|第2回(しげる編)
リハビリに来なくなった人の話を、責められなかった
玄関に置いたままの靴を、
しげるはしばらく見つめていた。
脱ぎっぱなしにしたわけではない。
きちんと揃えて、
次に履く向きのまま、そこに置いてある。
今日はリハビリの日だ、ということは分かっている。
カレンダーにも、予定表にも、
ちゃんと印がついている。
行かなきゃいけない、という気持ちはある。
「行ったほうがいい」ことも、
「行けば何かが変わるかもしれない」ことも、
頭では、分かっている。
でも、体が重い。
痛みが強いわけではない。
熱があるわけでもない。
ただ、
立ち上がろうとすると、
ほんの少しだけ、間があく。
その間に、
気持ちが追いついてこない。
気持ちも、少しだけ、ついてこない。

玄関の隅、
靴箱の横の低い位置に、
ぱせりんが、ちょこんと座っている。
何も言わない。
手を引くこともしない。
ただ、
しげるが靴を見ている時間を、
同じように見ている。
「今日はどうする?」
そう聞いてくれる人が、
前はいた気がした。
声として思い出すわけじゃない。
顔が浮かぶわけでもない。
ただ、
こういうときに、
自然に向けていた視線の先が、
今は空いていることに気づく。
今は、いない。
行くか、行かないか。
頑張るか、休むか。
誰かに相談するほどのことじゃない気もするし、
一人で決めるには、少しだけ重たい。
ぱせりんは、
玄関の冷たい床に座ったまま、
しげるの手元を見ている。
靴に伸びそうで、
でも伸びきらない、その手を。
しげるは、まだ何も決めていない。
行かないと決めたわけでもない。
ただ、
その場で立ち止まっているだけだ。
その時間が、
少し長く感じられる朝だった。
しげるは、ちゃんと通おうとしていた

しげるは、リハビリを軽く考えていたわけではなかった。
右手を骨折してから、
「きちんと戻したい」という気持ちは、
ずっと、生活のどこかにあった。
大げさに口に出すことはない。
誰かに宣言することもない。
でも、
これからの暮らしを考えたとき、
「このままじゃ困るな」という感覚は、
しげるの中では、はっきりしていた。
一人暮らしの生活の中で、
リハビリの日は、
特別な用事ではなく、
生活の予定のひとつとして組み込まれていた。
その日は、
買い物をずらしたり、
家の用事を前日に済ませたりする。
無理のない範囲で、
でも、後回しにしないように。
予定表に印をつけるときも、
力を入れるわけじゃない。
ただ、淡々と丸をつける。
「この日は、ここに行く」
それだけのこととして。
ぱせりんは、
その予定表の端に、ちょこんと座っている。
しげるがペンを置くのを、
少し下から見上げるように。
何かを褒めるわけでも、
背中を押すわけでもない。
ただ、
その“決めたという事実”を、
静かに見守っている。
リハビリの日は、
少し早めに支度をする。
着替えをして、
必要なものを確認して、
忘れ物がないかを、もう一度見る。
慣れない右手で、
動きは少しゆっくりになる。
それでも、
「行く」と決めた動きは、
ちゃんと体に残っている。
誰かに言われたからではない。
叱られたくないからでもない。
自分で決めて、
自分の生活の中に、
リハビリを置こうとしていた。
だからこそ、
「来なくなった」と聞いて、
簡単に「逃げた」とは思えなかった。
しげるの中には、
通おうとしていた時間が、
確かにあったからだ。
ぱせりんは、
玄関に向かうしげるの背中を、
少し離れたところから見ている。
行けた日も、
行けなかった日も。
どちらかに意味をつけることなく、
ただ、
その人がちゃんと考えていたことを、
知っている存在として。
痛みよりも、「できなさ」が積み重なっていった

リハビリでつらかったのは、
強い痛みそのものではなかった。
もちろん、痛みはある。
動かせば、じんとする。
無理をすれば、あとで残る。
でも、それが理由で
「もう無理だ」と思ったわけではない。
指を動かそうとすると、
思ったように動かない。
動かそう、と思ってから、
実際に動くまでに、
ほんのわずかな間があく。
その間が、
しげるには、やけに長く感じられた。
昨日より良くなったのか、
それとも変わっていないのか。
良くなっている気もするし、
そうでもない気もする。
誰かに聞かれたら、
「少しずつです」と答えるかもしれない。
でも、自分の中では、
はっきりした実感がつかめなかった。
ぱせりんは、
すぐそばにちょこんと座って、
しげるの手元を見ている。
動かそうとして、
途中で止まる指。
もう一度やってみようとして、
力が抜ける瞬間。
声をかけるわけでもなく、
励ますわけでもない。
ただ、
その“うまくいかなかった時間”を、
一緒に見ている。
頑張っているつもりなのに、
「できている感じ」が残らない。
終わったあとに残るのは、
達成感ではなく、
小さな疲れだけ。
今日はこれでいい、
と思おうとしても、
どこか引っかかりが残る。
その感覚が、
一日で消えることはなくて、
少しずつ、心に溜まっていった。
「痛いから行きたくない」
ではなく、
「やっても手応えがない」。
頑張る方向は合っているはずなのに、
前に進んでいる感じがしない。
そんな疲れ方だった。
右手を骨折してからの生活では、
こうした「できなさ」が、
食事や身の回りの場面でも積み重なっていくことがある。→ 利き手を骨折して一人暮らしがつらい時の食事|罪悪感を減らすコツ
https://lifeparsley.org/fracture-onehand-alone-meal/
ぱせりんは、
何も変わらない顔で、
しげるの横にいる。
良かったとも、
悪かったとも、
どちらとも言わずに。
ただ、
“今日はここまでだった”
という事実だけを、
静かに受け取るように。
「どうせできないし」という言葉が浮かんだ日

ある日、
指を動かしながら、ふと、言葉が浮かんだ。
意識して考えたわけじゃない。
口に出したわけでもない。
動かない指を見ているうちに、
気づいたら、
そこにあった。
「どうせできないし」
自分でも、少し驚いた。
そんなふうに思うつもりは、なかったからだ。
すぐに、
「そんなこと思っちゃいけない」と思った。
これまでだって、
できないことがあったわけじゃない。
仕事でも、生活でも、
うまくいかない場面は何度もあった。
そのたびに、
別のやり方を考えたり、
順番を変えたり、
時間をかけたりしながら、
なんとかやってきた。
今回だって、
そうすればいいだけのはずだった。
でもその日は、
その言葉を、うまく追い払えなかった。
ぱせりんは、
少し離れた場所で、
しげるの顔を見ている。
目が、
ほんの少しだけ伏せられたことに、
気づいている。
若い人の動きが、
なんとなく目に入る。
スムーズに動く手。
迷いのない動作。
「すごいな」と思うより先に、
自分の指に、
視線が戻ってくる。
回復の早い人の話を、
耳にしてしまう。
誰かが悪いわけじゃない。
比べる必要もない。
分かっている。
ちゃんと、分かっている。
それでも、
比べるつもりはなかったのに、
比べてしまった。
昔の自分の手の感覚も、
一緒に思い出してしまう。
何も考えずに動いていた頃。
意識しなくても、
自然にできていたこと。
年齢の違いを、
理屈では分かっていても、
気持ちは、そう簡単に切り替わらなかった。
「年だから仕方ない」
と、片づけてしまうには、
まだ、納得できない気持ちが残っている。
かといって、
「まだやれる」と言い切るほどの、
手応えもない。
その間に、
あの言葉が、また浮かぶ。
「どうせできないし」
ぱせりんは、
何も言わずに、そこにいる。
その言葉を、
否定もしないし、
正しいとも言わない。
ただ、
しげるがその言葉を
口に出さずに飲み込んだことを、
知っている。
そして、
その日が、
少しだけ重たい一日になったことも。
その日は、病院に行かなかった

朝、準備はしかけた。
目が覚めて、
いつも通りに体を起こして、
顔を洗って、
着替えをする。
特別なことは何もない。
体調が急に悪いわけでもない。
ただ、
動きが少しだけ、ゆっくりになる。
着替えて、
玄関まで行って、
靴に手を伸ばして。
その動きも、
前の日と変わらないはずなのに、
その日は、
そこで手が止まった。
ほんの数秒かもしれない。
でも、しげるには、
その間が長く感じられた。
前なら、
「今日はどうする?」と
聞く相手がいた気がした。
行くか迷ったとき。
気持ちが重いとき。
「無理しなくていいんじゃない」
「とりあえず行ってみたら」
どちらの言葉でもよかった。
誰かの声が、
その場にあれば。
今は、
行くか、行かないかを、
全部ひとりで決める。
正解かどうかは分からない。
間違いかどうかも、分からない。
ただ、
決める役目だけが、
静かに、手元に残っている。
ぱせりんは、
玄関の隅で、
小さく座っている。
しげるが靴に触れたまま、
動かなくなったことに、
ちゃんと気づいている。
何も言わない。
うながさない。
引き止めもしない。
ただ、
その場に一緒にいる。
電話をしなかったのは、
理由をうまく言葉にできなかったからだ。
「体調が悪い」と言うほどでもない。
「気分が乗らない」と言うのも違う。
どれも少しずつ当てはまらなくて、
どれも少しずつ近い。
その曖昧さを、
説明する力が、
その朝のしげるには残っていなかった。
行きたくないわけでもない。
頑張る気がないわけでもない。
それでも、
靴を履く動きには、
つながらなかった。
しげるは、
玄関に立ったまま、
しばらく動かなかった。
そして、
その日は行かなかった。
大きな決断をしたわけじゃない。
何かを諦めたわけでもない。
ただ、
その日は行かなかった。
それだけのことだった。
ぱせりんは、
その背中を、
少し離れたところから見ている。
責めることも、
意味づけることもなく。
ただ、
「そういう朝があった」
という事実を、
静かに覚えている。
手が思うように動かない日が続くと、
生活のリズムそのものが、
少しずつずれていくこともある。
来なくなった人を、責められなかった理由

あとから聞いた話で、
作業療法士さんが、こんなことを言っていた。
「やる気を引き出すのが、
いちばん難しいこともあります」
淡々とした言い方だった。
誰かを責めるような調子でもなく、
かといって、慰めるようでもない。
ただ、
現場にいる人の言葉として、
静かに置かれた一言だった。
その言葉を聞いたとき、
しげるの中で、
何かが引っかかった。
「やる気がないから来なくなった」
という説明が、
どうしても、しっくりこなかったからだ。
知り合いにも、
リハビリに来なくなった人がいた。
詳しい事情は知らない。
理由を聞いたわけでもない。
ただ、
ある時期から、
名前を見かけなくなった。
そのことを思い出したときも、
「逃げた」という言葉は、
自然には浮かばなかった。
しげる自身が、
ちゃんと通おうとしていたからだ。
予定を立てて、
生活の中に組み込んで、
無理のない形で、続けようとしていた。
やろうとして、
続けようとして、
それでも、気持ちが追いつかなくなった。
その過程を、
自分は知っている。
ぱせりんは、
少し離れたところで、
しげるの表情を見ている。
怒っているわけでもない。
諦めているようでもない。
ただ、
「違う気がする」
という感覚が、
静かに残っているのを知っている。
来なくなった人は、
さぼった人じゃなくて、
もう十分がんばった人かもしれない。
その考え方は、
誰かを正当化するためのものでもない。
事情を説明するための言葉でもない。
ただ、
自分の感覚に、
いちばん近かった。
そう思うほうが、
自然に感じられた。
責める理由が、
見つからなかった、というだけだ。
「通えなくなった人」を支える考え方があると知った

あとになって、
訪問看護という考え方を知った。
最初は、
詳しく調べたわけでもなかった。
制度のことを理解しようとしたわけでもない。
ただ、
そういう関わり方がある、
という言葉を、
どこかで目にした。
病院に来ることが前提ではない関わり方。
家にいる人、
外に出る気力が落ちている人とも、
つながり続ける考え方。
その説明を読んだとき、
「そういう人もいる」と、
頭では思った。
でも、そのあとで、
少し間があいた。
それは、
「大変な人のための支援」
というよりも、
自分の中の感覚に、
静かに触れてきたからだった。
「行けない人」ではなく、
「今は行かない人」。
その言い方が、
不思議と引っかかった。
行けない、という言葉には、
どこか決定的な響きがある。
できない。
無理。
もう戻れない。
でも、
「今は行かない」という言葉には、
時間の余地が残っている。
今日は行かないけれど、
明日かもしれないし、
来週かもしれない。
あるいは、
行かないまま、
別の形で関わることもある。
ぱせりんは、
しげるのそばで、
その言葉を一緒に受け取っている。
「使うかどうか」を
考え始めたわけでもない。
「自分には必要だ」と
決めたわけでもない。
ただ、
今まで知らなかった見方が、
そこに置かれた。
それだけで、
少しだけ、
肩の力が抜ける感じがした。
それは、
「頑張れない人のための仕組み」
というより、
頑張り続けてきた人が、
少し立ち止まってもいい場所がある
と知った感覚に近かった。
無理に進まなくても、
完全にやめなくてもいい。
そういう余白が、
最初から用意されている、
という考え方。
ぱせりんは、
何かを勧めるような顔はしていない。
ただ、
「そういう考え方もあるんだね」
と、
しげるの気持ちが、
少しだけ緩んだことを、
ちゃんと見ている。
訪問看護は、「頑張れる人」だけのものじゃない

リハビリに通えなくなったからといって、
支援から外れるわけではない。
そのことを、
頭ではなく、
感覚として知った気がした。
夜がつらいとき。
理由ははっきりしないけれど、
気持ちが沈みやすい時間帯。
一人で決め続けているとき。
小さなことでも、
全部自分で判断しなければならないとき。
気持ちが、体に追いつかないとき。
動けないわけじゃないのに、
動こうとすると、少し間があく。
そういう状態の人に近い考え方として、
訪問看護があることを知った。
「頑張れなくなった人が使うもの」
というより、
頑張り続けてきた人のペースが、
少しゆっくりになるときにも、
そのまま関わり続ける考え方。
それは、
「ちゃんとできているか」
「前に進んでいるか」
を、確認するためのものではない。
ただ、
人の生活が続いていることを、
そのまま見ていく、という感じに近かった。
ぱせりんは、
しげるの横で、
その考え方を一緒に聞いている。
「それ、使ったほうがいいよ」
とも言わないし、
「今すぐ相談しよう」
とも言わない。
ただ、
そういう選択肢が、
最初から用意されていることを、
一緒に知っている。
「使うかどうか」は、
今、決めなくていい。
必要になる日が来るかもしれないし、
来ないかもしれない。
そもそも、
使う・使わない、
という言い方自体が、
少し違う気もする。
関わり方のひとつとして、
そこにある。
それだけでいい。
ただ、
そういう関わり方があると知れただけで、
少し、見える景色が変わった。
訪問看護という言葉自体は、
特別なものではなく、
すでに制度としても存在している。詳しく知るためではなく、
「そういう考え方がある」と確かめる場所として、
公的な情報がまとめられているページもある。・厚生労働省|訪問看護について(出典:厚生労働省)
(URL)https://www.mhlw.go.jp/content/12300000/001123919.pdf
今まで、
「行けなくなったら、そこで終わり」
だと思っていた場所に、
実は、
続きがあったような気がした。
実際に、
夜の不安や、ひとりで抱え込んでしまう気持ちについて、
同じような視点で書かれている体験もある。
ぱせりんは、
その変化を、
大きな出来事として扱わない。
「すごい発見だね」
とも言わない。
ただ、
しげるの呼吸が、
ほんの少しだけ深くなったことを、
そっと覚えている。
まとめ|それでも、しげるは間違っていない

リハビリに行かなくなったことは、
失敗ではない。
そう言い切る必要もないし、
誰かに納得してもらう必要もない。
ただ、
「失敗だった」と
決めつけなくていい。
また行く日が来るかもしれない。
気持ちが少し戻って、
もう一度、靴を履く朝が来るかもしれない。
来ないままかもしれない。
別の形で、
生活を続けていくかもしれない。
どちらでもいい。
正しいか、間違っているかを
今ここで決める必要はない。
通えなくなった人を、
責めなくていい視点がある。
それだけで、
気持ちの置き場所が、
少し変わることもある。
訪問看護という言葉を知ったこと自体が、
ひとつの一歩だったのかもしれない。
何かを始めたわけでも、
何かを決めたわけでもない。
ただ、
「ほかの関わり方もある」と
知っただけ。
ぱせりんは、
そのことを、
大きな前進として数えない。
でも、
無かったことにもしない。
しげるが、
ひとりで抱えていた選択肢の中に、
そっと余白が増えたことを、
ちゃんと見ている。
今日は、
ここまででいい。
続きを考えるのは、
また別の日でいい。
靴は、
まだ玄関にある。
それだけで、
十分な日もある。


