茶碗ひとつ持てない日—しげるの本音から始めます
右手を骨折すると、いつもの食事が急にむずかしく感じられます。
「茶碗が持てない」「汁物が怖い」「噛むのがしんどい」――特にシニア世代では、そんな“食べにくさ”が重なりやすくなります。

今回の主人公は、70代のしげる。
元木工職人で、手の器用さがちょっとした誇り。
今は一人暮らしで、子どもは2人。それぞれ家庭を持って、週末にときどき電話をくれる存在です。
「大丈夫だよ。ちゃんとやってるから」
電話口では、ついそう言ってしまうタイプ。
本当は、右手がうまく使えないことも、器を落としそうで怖いことも、あまり話せないままの毎日です。

この記事では、そんなしげるの“片手生活の食卓”をのぞきながら、
- 骨折中でも“食べやすい食べ物”の選び方
- シニアが安心して食べられる形の工夫
- 「今日はあまり食べられない」という日の気持ちの持ち方
を、やさしく整理していきます。
右手を骨折してから、しげるの食卓が「こわい場所」になった話

ある朝、しげるは、湯気の立つ味噌汁を前にして、そっと息をのみました。
テーブルの上には、いつもと同じお椀。
亡くなった奥さんが選んでくれた、小ぶりで手になじむお気に入りのものです。
「これ…どうやって持とうかねぇ」
右手はギプスで固定されて、膝の上でじっと休んでいます。
左手だけで器を持ち上げようとした瞬間、
指先がぷるっと震えて、しげるはあわててお椀をテーブルに戻しました。
「落としたら片付けられんし、熱いのかぶったら大ごとだぞ…」
それ以来、しげるにとって食卓は少しだけ“こわい場所”になりました。
器が持てない → 汁物が怖い

「これを片手で持つのはさすがに怖い…」
しげるさんが思わず手を引いてしまう、緊張するひと場面。
右手が使えないと、両手で支える前提の器が、一気に“リスクの塊”になります。
- 味噌汁のお椀
- たっぷり入ったラーメンやうどんの丼
- 熱いお茶が入った湯のみ
「こぼしたらどうしよう」「熱い汁がかかったら大変だ」
そんな不安が頭をよぎるだけで、食欲はじわじわ落ちてしまいます。
「あいつ(奥さん)なら、“そんなのお椀変えればいいでしょ”って笑うんだろうな」
そうつぶやきながら、しげるは熱い味噌汁を少し冷ましてから、
恐る恐る、左手だけで口元へ運ぶようになりました。
噛むのがつらい → 食が細くなる
年齢とともに、噛む力は少しずつ落ちていきます。
そこに骨折の疲れが重なると、
- 肉がかたい
- パンの耳が噛み切れない
- 生野菜があごにくる
といった「ちょっとした噛みにくさ」が、思いのほかつらくなります。
「若いころは、固いパンも平気だったんだがなぁ」
しげるはそうぼやきながら、
パンの耳をちぎろうとして、うまく力が入らない左手を見つめます。
「迷惑をかけたくない」から、弱音が飲み込まれる
遠くに住む2人の子どもたちは、ときどき電話をくれます。
「お父さん、ちゃんとご飯食べてる?」
「困ったらいつでも言ってよ?」
電話の向こうの声は、どこか忙しそうで、それでも心配してくれているのが伝わってくる。
それだけで胸が熱くなるのに、口をついて出るのは、いつもの言葉です。
「大丈夫だ。ちゃんとやっとるよ。心配せんでええ」
「本当はね、味噌汁をこぼしそうになるたびにドキッとしてるんだよ」
そう続けたい気持ちを飲み込んで、
しげるは受話器を置いたあと、小さく息を吐きました。
骨折中でも“食べやすい食べ物”とは?|噛みやすい・持ちやすい・むせにくいがポイント

看護師さんの言葉をきっかけに、しげるさんの食卓に少しだけ光が戻った瞬間。
そんなある日、診察のついでに、
「最近、食事はどうしてますか?」と看護師さんに声をかけられました。
「まぁ、なんとか…ね」
と笑ってみせたしげるに、看護師さんは、こんなアドバイスをくれました。
「頑張って“いつも通り”を目指さなくて大丈夫ですよ。
今は、“食べやすい物”を“食べやすい形で”食べるのが一番です」
そこから少しずつ、しげるの食卓が変わっていきます。
やわらかくて噛みやすい食材を選ぶ
まず変えたのは、「噛むのに力のいる食べ物」を減らすこと。
- 柔らかく煮た大根・にんじん・かぼちゃ
- ふわっとした卵焼き
- 白身魚の煮つけをほぐしたもの
- 豆腐・茶わん蒸し
- おかゆ・雑炊・柔らかいうどん
「これなら、あごがつかれん」
小さなひと口でも「食べられた」という実感があると、
しげるの表情は、ほんの少しだけ明るくなりました。
片手でも扱いやすい“器と形”に整える
次に変えたのは、器の形です。
深くて重いお椀や丼は、右手が使えない今のしげるには、少しハードルが高い存在。
そこで、看護師さんに教わったのが、
「汁物は、浅いスープ皿に少なめがおすすめですよ」
という工夫でした。
味噌汁を、お椀ではなく浅めの器に入れて、汁もいつもより少なめに。
具を多めにして、スプーンで食べられるようにすると、ぐっと安心感が増しました。
「なんだ、これならこぼしそうな感じがせん」
器を変えるだけで、“こわい”から“ちょっと安心”に変わっていく。
それは、しげるにとって、ほんの少しの自信にもなりました。
むせにくい食材を意識する

とろみのある料理に少しほっとしながら、しげるさんの食卓に静かな安心が戻ってきた場面。
右手で体を支えられない分、姿勢も安定しにくくなります。
そのせいか、以前より少しむせやすくなったようにも感じていました。
そこで取り入れたのが、
- とろみのあるポタージュスープ
- ヨーグルトやプリン
- 具材を細かく刻んだ煮物
- とろろや温泉卵
など、“なめらかに喉を通るもの”。
「これは飲み込みやすいな。ふぅ…」
少しほっとしたような息が、食卓に戻ってきました。
外部の情報としては、厚生労働省がまとめている高齢者の食事・栄養のページも参考になります。
高齢の家族の食事を考えるときに、一度目を通しておくと安心材料になります。
💡厚生労働省「高齢者の栄養」(出典:厚生労働省ホームページ)
宅配弁当・冷凍惣菜も「がんばりすぎない食事」の味方
しげるは最初、「宅配弁当なんて贅沢だ」と思っていました。
しかし、右手を骨折してから、
「料理も片付けも全部ひとりで」は、想像以上に重い負担です。
電子レンジで温めるだけの宅配弁当や冷凍惣菜は、
- やわらかめの献立が多い
- スプーンで食べやすい形になっている
- 食器洗いがほとんどいらない
という意味で、片手生活の強い味方になりました。
「たまにはこういうのに頼っても、バチは当たらんだろう」
そう言いながら、しげるは小さく笑います。
“きちんと自炊しなくちゃ”という気持ちを、
少しだけゆるめてあげることも、回復期には大切です。
片手生活の道具や、あると助かるグッズについては、こちらの記事も参考になります。
【骨折経験から学ぶ】利き手の右手が使えない時の便利グッズ8選
しげるがたどり着いた「片手で食べやすい」食事の工夫
ここからは、しげるが少しずつ見つけていった“具体的な工夫”をまとめます。
特別なことではないけれど、積み重ねると暮らしがぐっとラクになります。
汁物は“浅い皿+少なめ”に切り替える

味噌汁やスープは、
- 深いお椀 → 浅いスープ皿へ
- たっぷりの汁 → 少なめ+具多めへ
- 箸だけ → スプーンも併用へ
というふうに変えていきました。
「お前の茶碗、今日はやめとくな」
奥さんが選んでくれたお気に入りのお椀を前に、
しげるは小さくつぶやきます。
「落としたら、泣いちゃうからな。もうちょっと元気になったら、また使わせてもらうよ」
そう心の中で話しかけながら、
今の自分に合った器を選べるようになっていきました。
主菜は“最初からひと口サイズ”にしておく
魚の切り身やお肉のおかずは、
最初から一口サイズに切って盛りつけておくと、食べるときがとてもラクになります。
- 焼き魚 → 身だけほぐして小皿へ
- から揚げ → 一口サイズを選ぶ or 切っておく
- 豚の生姜焼き → 細切れ肉を使う
「最初からこうしておけば、食べるときに困らんのにな」
誰かにやってもらえたらもちろん助かりますが、
もしそれが難しいときは、惣菜コーナーで“ひと口サイズ”のものを選ぶだけでもOKです。
ワンプレートにまとめて、片付けも片手で終わらせる

しげるは、洗い物がたまっていくシンクを見るのが苦手でした。
両手が使えたころは、さっと片付けてしまえたのに、
片手になった途端、それが小さなストレスに変わってしまったからです。
そこで、
- 大きめのワンプレート皿を1枚
- その中に主菜・副菜・主食をのせる
- 汁物だけは別の浅い器に少なめに
という“ワンプレート方式”に変えてみました。
「洗い物、これだけか。ふぅ…これなら、なんとかなるな」
シンクに並ぶ食器が減るだけで、
食べる前から感じていた“あとが大変そう”というプレッシャーが、少し軽くなります。
買い物は“少量パック”と“ストック食材”で乗り切る

しげるさんがよく手に取るようになった、少量パックの食材たち。
骨折中の買い物は、量よりも“持ちやすさ”が大切です。
重いペットボトルや大袋の野菜は、転倒のきっかけにもなりかねません。
しげるがよく買うようになったのは、
- カット野菜や少量のサラダ
- 少量パックの肉・魚
- 常温保存できるスープ・レトルトおかず
- 常備できるヨーグルト・プリン・ゼリー
「今のわしには、これくらいがちょうどいいな」
“値段だけ”ではなく、“今の自分の体で運べるかどうか”を基準に選べるようになると、
買い物も、少し優しい時間に変わっていきます。
それでも食べられない日はどうする?|休む勇気と「つなぐ」ご飯
どれだけ工夫をしても、どうしても食欲が出ない日があります。
痛みがつらい日、通院で疲れ切ってしまった日、
なんとなく気持ちが沈んでしまった日――。
そんなとき、しげるは自分にこう言い聞かせるようになりました。
「今日は“がんばらない日”でいい。
ちょっと食べて、ちょっと休もう」

無理に3食そろえなくていい
「朝・昼・晩、きちんと食べなくちゃ」と思うほど、
食べられない自分を責めてしまいます。
骨折中は、とくに“食べられる時間帯に、食べられる分だけ”で構いません。
- 朝はスープだけ
- 昼にしっかりめのおかゆ
- 夜はヨーグルトと果物
そんな日があっても大丈夫です。
飲むだけ栄養で“つなぐ”
噛むのもつらい日は、
- あたたかいポタージュスープ
- プロテイン飲料や栄養ドリンク
- 甘さ控えめのココア
など、“飲むだけ”で栄養がとれるものに頼るのもひとつの方法です。
「今日は、これが飲めたから合格にしよう」
しげるはそうつぶやきながら、
小さなマグカップを両手ではなく、左手だけでそっと持ち直し、
一口ずつ、ゆっくりと味わうようになりました。
骨折を早く治したいときの栄養や食べ方の考え方は、こちらの記事でも詳しくまとめています。
骨折を早く治す食事|右手が使えない日でも食べやすい“治癒を助ける食材と選び方”まとめ
ゼリー・ヨーグルト・果物で“自分を許すおやつ”
食欲がない日でも、
のどを通りやすいゼリーやヨーグルト、やわらかい果物なら口にしやすいことがあります。
- 一口ゼリーを数個
- ヨーグルトに少しだけジャム
- 柔らかく熟したバナナ
「今日はこれだけにしておくか。…うん、よし」
“ちゃんとしたご飯”にこだわらず、
“今の自分が受け入れられる一口”を選べるようになると、
心の負担も、すこし軽くなっていきます。
まとめ|「今日食べられた分」で、自分に合格を出していい

「今日はこれだけ食べられたから、合格だな」
——奥さんの声を思い出すように、しげるさんはそっと目を細めました。
右手を骨折してしばらくの間、
しげるは、食事のたびに小さな不安と向き合っていました。
器を落としそうな怖さ。
噛めないつらさ。
子どもたちに心配をかけたくない気持ち。
奥さんの茶碗を手に取るたびにこみ上げてくる、言葉にならないさみしさ。
それでも、浅い器に変えたり、やわらかい食材を選んだり、
宅配や冷凍惣菜に頼ったりしながら、
「今の自分でも食べられる形」を少しずつ整えていきました。
「片手でも、工夫すればなんとか食べられる。
今日はこれだけ食べられたから、合格だな」
食卓を片づけながら、しげるは小さく笑います。
「あいつが見てたら、“それでいいのよ”って言うだろうな」
そう心の中でつぶやいて、
湯気の消えかけたお味噌汁に、そっと目を細めました。
ナレーター・ぱせりんからも、最後にひとこと。
「食べにくい日は、“食べやすくしてあげること”がいちばんの優しさです。
あなたが今日食べられたひと口は、ちゃんと骨と心の力になっていますよ」
「ちゃんと食べないと」ではなく、
「今日食べられた分で、自分に合格を出してあげる」。
そんな視点で、骨折中の食卓を少しでもラクにしていけたらうれしいです。


